鮫城健児の精神は堅実し/こうじょうけんじのこころはかたし
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はじめに
沿革の記述に載せるほどではないけれど、往時にそれまでと何となく違って感じた変化のトピック的な事象を集めました。同時期(時代)を共有した
社会背景・事象や、郷土・本校に関する事象を通じて、本校卒業生の歩みを辿る歴史資料としての一助になれば幸いです。
また在校生の皆さんからは、先輩方が過ごしてきたその時代にそんなことがあったのか、今ある約束事はその時からなんだとか新たな発見・気付きがある
かもしれません。
同窓生の皆さんから、そういえば私の時代にはこんなことがあったなというような、在学時のちょっとした話題・出来事を提供して頂きたいと思います。
記事が集まり次第、順次改訂していきたいと思います。どうぞご協力をお願いいたします。
※ 出典(文書):周年記念誌、会員名簿、卒業アルバム、生徒会誌(学友・報国)、上越市役所HP、上越市平和展
※ 出典(写真):周年記念誌・記念DVD、会員名簿、卒業アルバム、目で見る上越・糸魚川の100年、上越の100年
ふるさとの想い出写真集高田・直江津、高田市史第U巻、高田図書館110年の歩み、上越市平和展
写真集 ふるさとの百年/新井・中頸城
◆皆さんご自身の「高商トリビア」を募集しています。青春時代を思い出してみませんか・・・!?
◆簡潔な説明文(400字程度)とその時の感想・印象等をご提供下さい(写真もあればなおGood!)。 〜送り方は「事務局通信」ページ参照〜
◆記事内容(文章・写真等)についてお気づきの点がありましたらご連絡下さい。
◆記事末尾の( )は提供者名で、匿名とする場合があります。(お名前の後の( )は卒業年)
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開校前の郷土史 (大政奉還・明治の時代) … click here / open-close …
<敬称略>
大政奉還・明治維新 〜明治の時代〜
大政奉還図
天皇東京行幸
慶應3(1867)年10月14日、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許しました(大政奉還)。
鎌倉時代からずっと「武士」が政治(まつりごと)の中心に位置し、朝廷から征夷大将軍として任命された武家政権のトップが「朝廷から権力を預かって政治を行う」
という仕組みが約700年続いていました。
嘉永6(1853)年、浦賀にペルー率いる軍艦4隻が来航しました。これを契機に尊王攘夷の機運が醸成され、江戸幕府の幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成し、
封建社会からの脱却を図り、富国強兵・殖産興業を旗印に富国列強から日本の独立を守ることを目指しました。
写真上は大政奉還図(邨田丹陵 筆)、写真下は明治天皇の東京行幸(聖徳記念絵画館壁画)。 出典:Wikipedia (編集部)
戊辰戦争 〜干支戊辰の年に開戦〜
戊辰戦争経路地図
招魂社
慶応4(1868)年、維新政府軍と旧幕府側との間に16か月余にわたって戦われた内戦。正月の鳥羽・伏見の戦いに勝利した政府軍は、4月江戸城を接収、上野にこもる彰義隊はじめ関東各地で
旧幕府主戦派を討滅、奥羽越列藩同盟を結んで対抗する諸藩をも会津戦争を頂点に10月には帰順させました。翌年5月、最後の拠点箱館五稜郭を陥落させ、内戦は終結、明治国家確立への途が
開かれました。
代々譜代大名統治の高田藩は対応に苦慮しましたが、維新政府軍につき長岡・会津などで奮戦しました。
写真上は戊辰戦争経路地図、下は動乱の幕末維新期に戦死した兵士達が眠る招魂社(金谷山)、裏側には会津藩士達の墓もあり。 出典:Wikipedia (編集部)
廃藩置県 〜郡区町村編制法〜
地方行政区画図
中頸城郡役所
明治4(1871)年7月、明治新政府は廃藩置県を施行しました。高田藩は高田県、頚城郡下の旧幕府領は柏崎県となり、その後上越地方全域は柏崎県の管轄下におかれました。
明治6(1873)年に柏崎県・新潟県が統合されて新しい新潟県が誕生、同11(1878)年には「郡区町村編制法」によって、頚城郡は東・中・西に3分割されました。西頚城郡は
糸魚川方面となります。
郡は県に次ぐ行政単位で、各郡の中心地(東:安塚、中:高田、西:糸魚川)に郡役所がおかれました。
写真上は地方行政区画図(明治4年)、下は中頸城郡役所。 出典:Wikipedia (編集部)
新国家の建設 〜岩倉使節団〜
明治天皇
岩倉使節団
明治4(1871)年12月23日から同6(1873)年9月13日にかけて、維新政府は不平等条約改正ならびに西洋の諸制度の研究をするため岩倉具視を正使、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らを
副使とする岩倉使節団を欧米へ派遣しました。
使節団は条約改正には失敗するものの、西洋の諸制度の研究・吸収には成功し、この後の維新の動きに大きな影響を与えました。
写真上は明治天皇(史上初の天皇の公式写真)、下は岩倉使節団(左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通)。
出典:Wikipedia (編集部)
高田事件 〜自由民権運動弾圧〜
高田事件記念碑
記念碑&説明文
明治7(1874)年、板垣退助ら愛国公党により「民撰議員設立建白書」が提出されました。これは、人民の自由と民権を確立し、民意を基盤として国家を作るという趣旨で、
維新以来の様々な矛盾に反発を感じていた全国の人々に大きな影響を与え、わが国初の国民的運動、自由民権運動の契機となりました。
高田事件は、明治16(1883)年3月20日に発生した新潟県高田・頸城地方(現 上越市)を中心とした自由党員らを対象とした自由民権運動に対する弾圧事件です。但し、
逮捕された大部分が冤罪でした。
写真上は昭和12(1937)、金谷山に建立された高田事件記念碑と関係者による建立記念写真、下は「国事犯〜」と刻まれた記念碑と歴史的経緯の説明文。 出典:Wikipedia (編集部)
頚城油田 〜燃える水「草生水」〜
玄藤寺油田
石油精製工場
古代「燃える水」として朝廷に献上された越後の石油「草生水(くそうず)」は、江戸時代の終わりから明治時代にかけて地域の産業の柱へと成長を遂げました。
明治6年頃沢田(現板倉区)で始められた油田開発は、牧・名立・五智・郷津の各地に広がり、頚城地方に一大石油ブームを巻き起こしました。
上越市の板倉区と清里区にまたがる玄藤寺(げんどうじ)油田は、明治時代に石油ランプが全国的に普及すると、日本を代表する油田の一つとして大きな注目を集めました。
明治33(1900)年にはアメリカのスタンダード・インターナショナル石油会社が直江津に石油精製工場を設け、石油精製事業を開始しました。
写真上は玄藤寺油田、下は米社製油所。 出典:上越市立歴史博物館 (編集部)
近代教育のあけぼの 〜不学の戸なく〜
森有礼
高田第三尋常小学校
我国の近代教育制度は、明治5(1872)年8月の学制発布に始まりました。欧米先進国を模範とする近代国家確立のためには、国民全体の資質・能力を高める近代教育
の普及が急務でした。頚城郡下では、学制発布直後から寺子屋等を発展させる形を含めて、次々と学校が産声をあげました(邑-むら-に不学の戸なく)。
明治19(1886)年に小学校令公布し、尋常小学校の4年を義務制としました。また、明治23(1900)年には教育勅語を発布するとともに小学校令を制定、教育制度の整備が
進められました。
教科書も充実し、県下の就学率はこの頃から急激に上昇、明治40年代には全国平均を上回り100%近くにまで達しました。
写真上は教育制度整備に貢献した初代文相の森有礼、下は高田第三尋常小学校。 出典:Wikipedia (編集部)
教育機関の充実 〜師範学校・中学校〜
高田師範学校
高田中学校
明治7(1874)に新潟師範学校が開校し、同10年に高田に分場を置き、同32年高田に新潟県第2師範学校を本誓寺他の寺で開校。同34年に新潟県高田師範学校と改称。
翌年6月に校舎が完成しました。(写真上)昭和24年新潟大学分校(同26年教育学部高田分校)となり、同57年新潟大学に吸収併合を経て、上越教育大学誕生につながっています。
明治7(1874)年5月16日、旧高田藩「修道館」に新潟学校高田第4分校を設け、英語と数学を教えたのが高田中学校の始まりです。同9年に校舎類焼、岡島町(大手町/旧市立図書館)
に新築移転し、のち幾多の変遷を経て明治31年に現在地(南城町3)に新築移転しました(写真下)。同33年に県立に移管し昭和3年改築、直近では平成18(2006)年に校舎を大改築しています。
(編集部)
南摩羽峯(なんま うほう) 〜正心學舎〜
南摩羽峯(綱紀)
正心學舎跡地
跡地案内掲示文
戊辰戦争で高田藩預りとなった敗残の会津藩士1,700名余の中に、会津藩校「日新館」教授で西洋事情にも通じていた高名な南摩羽峯(綱紀)が居りました。
羽峯は謹慎中、本誓寺で郷土の名士(地主階層)を集めて学校開設論を力説しました。これに共鳴した上増田村(頚城村)の岡田保は、明治3年横曽根に正心學舎(しょうしんがくしゃ) を開きました。
会津藩士たちが許されて斗南(となみ)藩に帰った後も高田に残り学舎の指導に当たりました。
学舎は寄宿制で1級から7級まで分け、7級では「万国公法」(いわば国際法)・「高等数学」もあり大学並みのレベルの高さを誇っていました。加藤貞盟(頸城自由党員)や保阪武助(保阪家6代当主)
などもこの学舎に学び大きな影響を受けました。
そして共に羽峯に共鳴したのが増村朴斎(ぼくさい)の父増村度弘(号 越渓)で、父の遺志を継いで子の朴斎が有恒学舎(上越市板倉区)を創立しました。
写真上は南摩羽峯(後に東京大学教授、東京高等師範学校教授などを歴任)、中は横曽根(北諏訪地区)の正心學舎跡地。 出典:Wikipedia (編集部)
東に有恒学舎あり 〜増村朴斎〜
有恒学舎全景
増村朴斎葬送
増村朴斎&碑陰
「西に松下村塾、東に有恒学舎あり」と謳われた有恒学舎(現県立有恒高等学校/上越市板倉区)は、明治29(1896)年に私財を投じた当時29歳の増村度次(号 朴斎)により、
独力で創立された私立学校です。
同年4月10日、板倉村針の浄覚寺を仮校舎に有恒学舎を開学しました。5月には元幕臣の勝海舟書「有恒学舎」の額が哲学館大学(現東洋大学)創立者井上円了から届けられ、
7月29日に沖ノ宮校舎が完成して盛大な開校式が行われました。
明治39(1906)年からは会津八一が4年間在職し、英語を教えました。また、新渡戸稲造、徳富蘇峰ら多くの著名人が学舎を訪れました。朴斎の教えは現在の有恒高校にも連綿と受け継がれています。
昭和17(1942)年5月18日、朴斎死去(享年74歳)。同月22日に大勢の参列者を迎えて舎内講堂において学舎葬が行われ、延々と続く葬場への長い葬列は人々の深い悲しみを表しています(写真中)。
写真下は増村朴斎と創立100周年を記念して建立された記念碑の碑陰。 出典:Wikipedia (編集部)
農・女学校等の創立 〜その1〜
高田農学校/明治末期
高田高等女学校/明治39年
明治32(1899)年に中頸城郡立播種場と養蚕伝習所が合併し、郡立高田農学校(現高田農業高等学校)が開校しました。県下で一番歴史の古い農学校です。
はじめ紀伊国町(現南城町)の民家を校舎としていましたが、翌年5月に藪野新田(現在地)に近代的な校舎を新築し移転しました。藪野の名の通り学校の周りは民家も少なく田や畑が広がっており、
北側は杉林でした。明治40年に県立に移管し新潟県立高田農学校となりました。
明治33(1900)年、中頸城郡立高田高等女学校(現高田北城高等学校)が寺町2丁目の善導寺の本堂を幕で仕切って開校しました。同35年に現在地(北城町)に新築移転し、同40年に県立となりました。
良妻賢母を養成するエリート学校であり、女子師範に進学する者もありました。
昭和23年高田女子高等学校、同25年に高田北城高等学校と改称、同50年に男女共学となりました。 (編集部)
農・女学校等の創立 〜その2〜
高田高等家政女学校
高田高等裁縫女学校
明治37年に四ノ辻通(西城町1)の借家で女子裁縫学校(現上越高等学校)が開校しました。翌年校舎を旧高田中学校(旧高田図書館/岡島町)に移し、同41年11月に寺町の現在地に新築移転しました。
校名は高田実家女学校(大正7)、高田高等家政女学校(昭和2)と改称し、以降幾たびかの変遷を経て昭和23年高田家政高等学校、同36年高田女子高等学校と変わり、
同57年に現在の上越高等学校になりました。
また明治42年4月、馬出町(現大町2)に女子技芸専修学校(現関根学園高等学校)が開校しました。校名を明治44年に創立者(高田中学校教諭 関根万司)の姓をとって関根裁縫女学校とし、
昭和5年高田高等裁縫女学校に改称、同6年に刑務所跡(西城町2)に高田中学の建物を移して移転しました。以降数度の変遷を経て昭和37年に大貫に男子部を設置、
高田北辰高等学校と改称し、同53年に男子部・女子部が合併、関根学園高等学校となりました。 (編集部)
農・女学校等の創立 〜その3〜
直江津農商学校
新井農商学校
明治44(1911)年4月、乙種実業学校として中頸城郡立直江津農商学校が、修業年限3年で古城(現港町)にて開校しました。翌年5月に校舎完成、南に農園がありました。大正11年郡制廃止により県に移管され、
新潟県立直江津農商学校となりました。昭和25年に県立直江津女学校と合併し県立直江津高等学校に、更に平成19(2007)年に県立直江津中等教育学校が開校し直江津高校は募集停止となりました。
また明治44年4月、中頸城郡立新井農学校も開校しました。頚南各町村の子弟が入学し、卒業後は町村の中堅層として活躍しました。
大正8年に商業科を増設して郡立新井農商学校と改称、同11年県立に移管して県立新井農商学校となりました。昭和23(1948)年、学制改革により新井高等女学校と合併し、県立新井高等学校となりました。
写真上は創立時の直江津農商学校、下は大正後期の新井農商学校の校舎で、左側に同窓会が創立10周年を記念して建築・贈呈した記念館があります。 (編集部)
高田盲学校の創立 〜全国3番目〜
調矇学校校舎落成式
高田盲学校
明治19(1886)年、高田相生町(仲町2)の眼科医大森隆碩らが調矇談話会を設立し県に盲学校開設を申請。翌20年盲人矯風研技会に改称、同24年県知事の認可を得て、
現仲町2の民家に私立調矇学校(改称)を開校しました。
翌25年、現本町2に移転、経営難を米人宣教師ダンロップ、高田の各宗寺院などの援助を得て切り抜け、同26年に相生町に転じ、40年に高田調矇学校と改称、42年に寺町の天崇寺境内に
旧郡立高田病院の不用病院を移して、9月1日竣工。大正4年私立高田盲学校と改称、昭和24年県立に移管し新潟県立高田盲学校に改称。翌25年寺町2に移転、平成18(2006)年3月31日に閉校しました。
京都盲唖院、東京の楽善会訓盲院に次いで、全国で3番目に設立された歴史を有する盲学校で、上越地域における視覚障害教育の中心校でもありました。
写真上は明治42年の高田調矇学校校舎落成式、下は高田盲学校。(編集部)
学生と制服 〜和装から洋装へ〜
高田高等女学校生徒
高田中学校生徒
高田師範学校は明治32年の開校から洋装、高田中学校は同33年頃ズボン(洋装)に白線を入れて、高中のシンボルとして誇りました。
農学校もまもなく洋服を採用し、ズボンに2本線を入れました。本校(高田商工学校)は甲種5年制昇格を期に、大正10年から洋装にしています。
生徒達は6月から9月まで霜降の、10月からは紺の小倉服でした。
女学生は始めは、おたいこ帯に髪はいちょう返しかももわれでしたが、間もなく袖袴・おさげ髪となり、高田高等女学校(現北城高校)は袴の裾に白線1本、家政女学校(現上越高校)は2本、
高田高等裁縫女学校(現関根学園高校)は波形に1本の筋を入れましたが、大正12年に高等女学校がセーラー服にしてから各校とも洋装となりました。
写真上は高田高等女学校の和服姿、下は高田中学校の和装と洋装の過渡期写真(洋装はズボンに白線あり/前列教員)。 (編集部)
頚城鉄道開通 〜軽便鉄道〜
新黒井駅
開通前日歓迎式/上森本駅
頚城平野を走る軽便鉄道
明治44(1911)年に軽便鉄道法が制定され、翌45年2月大竹謙治ほか7名を発起人として、鉄道院に上越軽便鉄道の敷設を申請しました。これに対し同年8月に総理大臣による免許状が下付されました。
創立総会で定款が定められ、社名を頚城鉄道株式会社とし、社章と記章(マルケー)等が決められたました。
建設工事は大正3(1914)年に開始され、同年10月には新黒井・下保倉間が開通しました。更に同5年4月に下保倉・浦川原間の延長工事が完成し、頚城鉄道全線が
開通しました。
頚城鉄道は通称軽便と呼ばれ、狭軌の可愛らしい鉄道で、乗客輸送は勿論東頚城郡への物資の輸送を担い、沿線住民の暮らし向上に大きく貢献しました。
写真中は開通前日、視察に訪れた前鉄道院総裁床次竹二郎氏(免許取得に尽力)を歓迎する上森本駅(後の明治村駅/前列右端が大竹社長)。
出典:頚城自動車鉄道資料 (編集部)
陸軍第13師団入城 〜 軍都高田〜
高田明細地図
第13師団司令部
明治41(1908)年、多数の候補地との誘致合戦の末に陸軍第13師団が高田にやってきました。各部隊を合計すると将校280人、下士官と兵隊で3,300人余の来高で高田町
(同年高田町・高城村合併)の人口は師団を含めて約3万人となり、地域経済の発展や高田市制施行(明治44年高田市発足)の契機ともなりました。
本丸跡には師団司令部が、城内北側には兵器支廠(現上越総合技術高校)、南側には騎馬連隊(現陸上競技場・野球場)、城外に砲兵連隊・衛戍(えいじゅ)病院等が置かれるなど、
市内各所に軍部隊・施設が配置・設営されました。
写真上は当時の高田明細地図(白抜きの説明図形は編集部付加)、写真下は第13師団司令部(城内本丸跡)。 出典:平田真義 (編集部)
市内各所の軍施設 〜司令部は本丸跡〜
高田城&周辺市街絵図
第13師団構成&設営地
日露戦争末期の明治38(1905)年、従来の師団総てを動員した為本土駐留師団がなくなる事態となり、第13師団を含む4個師団が創設されることになりました。
明治39(1906)年、第13師団が常設師団として信越地方に設置される方針が明らかになると、高田市が積極的な誘致運動を行い衛戍(えいじゅ)地となりました。高田、新発田、松本に歩兵連隊、
小千谷に工兵大隊が配置され、高田には連隊区司令部、憲兵分隊、衛戍病院など師団の基幹部隊が配置されました。また、高田市の周辺に中田原練兵場・灰塚射撃場・関山演習場
が配置・設営されました。
写真上は明治44年頃の高田城&周辺の市街絵図、写真下は第13師団の構成と設営地の一覧表。 出典:平田真義 (編集部)
市立高田商工学校創立 〜 (大正5年創立) … click here / open-close …
<敬称略>
商工学校創立 〜 旧図書館と同居〜
高田商工学校/図書館
岡島町(現大手町)地図
大正5(1916)年、岡島町(現大手町/大手十字路東側)にあった旧高田図書館と同居する形で市立商工学校が設立されました。それまで図書館北側建物を使用していた
高田幼稚園が移転(大手町尋常小学校西隣に新築・移転)したあとの建物に入居しました。
大正11年12月に南城町3に校舎新築・移転するまで7年間の学校生活。その間定員拡充・授業内容充実を図るため3回の校舎増築を行いました。
校舎向かって左側が増築された工科実習棟で、後に新校舎(南城町3)へ移築されました。
写真下の地図では、〇印の個所が旧図書館跡地です。なお、高田図書館は平成6(1994)年に現在の公園内(忠霊塔東側)に新築・移転しました。 (編集部)
必要最小限の簡素な校舎 〜天皇行在所〜
校舎見取り図
開校式記念撮影
校舎一階は、玄関を挟んで教務室と会議室、東側(堀側)は運動場で柱が多く大層不便で、一寸暴れると床板が落ちることもありました。続いて工科実習場等が
ありました。
二階は教室に充てられ、東側は工科、西側が商科が使用しました。教室は明障子で囲まれ、障子は貼っても貼っても破れ、昼でも電灯が欲しい程暗いこともありました。
二階には明治天皇行在所があり、生徒の立入は禁止となっていました。
また、開校式は6月15日に挙行され、来賓には福原視学(知事代理)をはじめ、市内近在の名士が多数参列しました。写真下は開校式記念撮影、前列左から3人目倉石源造初代校長、
4人目が福原県視学。 (編集部)
学科は商業科、漆工科、家具(指物)科
工芸実習
木工実習
大正時代前半は第一次世界大戦が勃発、日本経済は未曽有の好景気に沸き、近代産業の出現に向けて大きく躍進した時期でした。
そんな時代背景のもと、地元地域の発展には商工を中心とした地場産業興隆を担う人材の育成が切望される状況となりました。
学校創立時の概要は、商業科・漆工科・家具(指物)科の実業3科の設置。校舎は当分建築せず、市立図書館の古建物に同居し、
工科の実習工場は増築するということでスタートしました。
写真は昭和10年代の実習風景。 (編集部)
乙種第1回卒業生 〜商業科〜
商業科第1回卒業式
大正6年月1月26日第一回卒業式が行われ、商業科3年生12名が卒業しました。
前年開校時に入学した生徒のうち、商業科は1年生のほかに2年生(30名)、3年生(12名)が直江津農商学校その他から編入学していました。
後年、母校に私財(東京電力株式)を寄付し、奨学基金創設に貢献された佐藤富一郎氏もこの年に卒業しました。基金の一部はその後中田ヶ原校舎の
六華会館建設資金としても充当されました。佐藤氏は卒業後上京して大同レザー鰍起業し、江戸川区議会議員(含 副議長・議長)を経て区長も勤めました。 (編集部)
「学友」第1号発行 〜学友会誌〜
学友会誌
校歌/生徒作詞
大正5年9月14日学友会発会式が行われ、学芸部・運動部・研究部の3部と「会計」からなる生徒主体の生徒会活動が始まりました(会費5銭/月)。
翌6年12月25日、学友会誌「学友」第1号(46頁)が発行され、職員生徒の論文や文芸作品、それに展覧会記事等が掲載されました。以降版を重ね、
生徒の活動をつぶさに自らの手で積極的に発信しました。
昭和26年4月に生徒会が発足し、学友会(部活動)と生徒会(委員会活動)が並立する期間が続きましたが、昭和48年に両者を生徒会に一本化しました。
また、同年1月には両会の機関誌名を「六華」に統一。
写真下は本校校歌制定(昭和4年)以前に、学友4号(昭和3年発行)に掲載された生徒作詞の校歌。(編集部)
甲種昇格 〜3年制から5年制へ〜
乙種第1回卒業生
甲種第1回卒業生
大正10(1921)年3月31日、待望の甲種に合格し5年制となりました。乙種3年制の創立当初から、より高度な実技・理論修得には3年制の徒弟的教育では不十分との
考えがあり、甲種への転換を目指していました。それまで設けられていた3年終了後も学ぶための補習科は廃止され、同時に家具指物科は木工科と改称されました。
甲種昇格が学校に与えた影響は甚大で、生徒・職員とも校内に新生機運が大いに高まり、勉学・実習、部活動とも一層の深化・向上が図られました。
また、これまでの和服が廃止され洋服となりました。写真上は和服での乙種第1回卒業式(漆工科)、下は洋服の甲種第1回卒業式(工科)。 (編集部)
校舎移転 〜旧図書館→南城新校舎〜
商工学校校舎/南城町3
移築実習室
大正11(1922)年に馬場先町(南城町3丁目)の新校舎(敷地面積5,000坪、延べ建坪760坪、屋外運動場1,204坪)に移転しました。
旧図書館の同居校舎から漸く自前の校舎を持つこととなりました。
新築工事は同年8月4日地鎮祭、10月25日上棟式、12月20日に竣工。この時、図書館校舎で増築していた実習室も新校舎
として移築しました。写真下
23日旧校舎で終業式を行い、翌24日、雪の中を生徒が机や椅子を持って大行列をつくり、新校舎に運んで移転。翌25日に新校舎
で落成式が挙行されました。この間、5ヶ月間という極めて短期間の新築工事でした。 (編集部)
第十三師団司令部廃止 〜軍都高田〜
第13師団構成図
陸軍兵器廠
第一次世界大戦後の世界経済悪化や大正12年の関東大震災等による財政悪化を要因とする軍縮方針により、大正14(1925)年に第13師団が廃止されました。第2師団(仙台)の歩兵第15旅団の支配下になりますが、
昭和12(1937)年に師団は復活し、歩兵第58、第30連隊など郷土部隊の拠点として存立。高田の軍都としての性格に変化はなく、終戦までの間陸軍の施設として重要な役割を果たしました。
戦後旧陸軍跡地は一時GHQの駐屯地になり、現在は一部が陸上自衛隊高田駐屯地となっています。
写真上は廃止後の第2師団(仙台)隷下の高田の部隊構成図表。写真下は北堀に面する兵器支廠(現 上越総合技術高校)。
出展:平田真義 (編集部)
大正期を彩る街並み 〜高田市〜
呉服町通り
営所通り
大正3(1914)年、洋風の高田市役所が旧役場と同じ場所(呉服町/現本町3丁目)に建てられました。明治後期から続く主な建物(料亭・旅館など)の
洋風化は大正時代になって本格化し、高田や直江津、糸魚川などの中心部では古い街並みと新しい洋館のコントラストが目を引くようになりました。
写真上は大正末期の市役所通りと呼ばれた呉服町通り(現本町3丁目)付近の町並み。正面の洋風建物が高田市役所。
写真下は同時期の営所通り(司令部通り/現大手通り)。未舗装で自動車の往来も殆どなく、人々はきままに歩くことができました。 (編集部)
新潟県立高田商工学校 〜県立移管〜
南城商工学校校舎
大正15(1926)年4月1日、県立に移管し、新潟県立高田商工学校となりました。
前年の14年11月19日に高田市会で、次の条件で県営移管実施計画を可決することに成功していました。
1.校地、校舎、工作物、機械一切を県に寄付する。
2.設備費6千円を寄付する。
3.尚不足の場合は寄付金を追加する。
高田市のこの条件はついに県会を動かし、同年12月の県会で県営移管が決定しました。当時、長岡・新発田を始め県下八か所から中等学校県移管の
猛運動が起こっていた中での、高田商工学校のみの移管でした。
写真の校門には「新潟県立高田商工学校」の文字が確認できます。 (編集部)
アンビリーバブル 〜水泳は内濠〜
内堀での水泳
校内角力大会
昭和3(1928)年9月10日、内濠(高田城址公園)で全校水泳大会が開かれました。当時の水泳授業は内濠で実施、今より水質が良かったのでしょうか。
それにしてもオーマイガー!・・・。 (写真上)
当時は角力競技も盛んで、昭和4年7月2日には全校生を東西南北、更に1・2年生の青年部、3・4・5年生の青年部に分けて校内角力大会が開催されました。
生徒は短パンにまわし(ひも)を締め、校庭の一角に設けられた本格的で立派な土俵で真剣に取り組みました。 (写真下)。 (編集部)
創立15周年 〜創立以来の大行事〜
15周年記念式
15周年祝賀会
昭和6(1931)年、11月1日から3日まで創立15周年記念式と記念展覧会が開催されました。本校にとっては創立以来最初の同窓生・在校生・旧職員・現職員あげての大行事、
数か月前から準備しました。1日午前10時から記念式典を講堂で挙行し、正午から屋外運動場で祝賀会を開催しました。
来賓として河野視学が知事代理として祝辞を朗読したのをはじめ、来賓700名が参列しました。
なお、この年までの卒業生は約400名、在校生は292名(定員300名)職員は28名でした。 (編集部)
商工名物 予餞会 〜卒業生歓送会〜
予餞会/昭和4年
予餞会/昭和9年
昭和4(1929)年1月28日、4年生以下(在校生)主催の5年生(卒業生)送別会が開催されました(写真上)。この卒業生を送る送別会は予餞会という名称で代々恒例化し、
内容も多彩な出し物が工夫され「商工学校の名物」になっていきました。
写真下は9年2月21日に行われた予餞会終了後の記念写真です。寸劇、その他いろいろなアトラクションを催し、大いに会場をわかしました。当時「丹下左膳」が
大流行していて、丹下左膳に扮した出演者が前列左側に見ることができます。 (編集部)
活発な各種校内行事 〜戦争前の平穏〜
珠算競技大会
展覧会
昭和6(1931)年6月14日、高田商工学校珠算競技大会が開催されました。読み上げは渡辺一郎教諭で、後に柏崎商業校長になりました。(写真上)
また同年11月、創立15周年記念事業として、1・2・3日(明治節:文化の日)の3日間、高商祭の前身ともいえる展覧会が盛大に開催され、
以降年々拡充されました。(写真下)
大正末期には不況に突入し、昭和初期には世界恐慌となりましたが、昭和6年の満州事変勃発前までは大正ロマンの余韻も残り、商工高校は比較的自由な雰囲気で
落ち着いて校風の涵養に努めることができました。 (編集部)
中田ヶ原練兵場 〜現地略図〜
練兵場現地図
城下町高田の発展策として軍隊の誘致運動を強力に展開したことが功を奏し、高田町と高城村が合併し新高田町が誕生した明治41年、
陸軍第13師団歩兵第26旅団司令部が入城しました。このことに合わせて中田ヶ原の地に練兵場が設置されました。
面積15万坪のこの広大な敷地は、当時農地であった金谷村中田ヶ原の美田約50町歩(内 畑1町歩)も含み、買収され練兵場に造成されました。
周囲の距離は、南北約1,100m、東西約900m、周囲約4,000mありました。
今の学校前の産業道路は、練兵場や灰塚射撃場へ訓練を受けに兵隊や学生がよく通った小道でした。そして、現校地のグラウンド南端の用水に沿って
騎兵隊使用の馬場、更にこの延長線上の西端の用水から200m位の長さの歩兵訓練場がありました。 (編集部)
愛国機命名式 〜飛行機献納〜
献納記念式
愛国51号(新潟県)
戦前から終戦までにかけて、当時の植民地を含めた日本国内において、鉄カブトから鉄砲、高射砲、装甲車、戦車、はては艦船まで、一般市民や企業から軍へのさまざまな
献納が行われました。
その一つである軍用機献納は昭和7(1932)年1月の陸軍愛国1号、2号から始まり、少し遅れて始まった海軍報国号と共に瞬く間に全国的な運動となって、
昭和20年の春頃まで続きました。
写真上は昭和7年10月20日の高田練兵場での献納記念式(愛国機命名式)。左から愛国51号(新潟県)・愛国52号(新潟県)・愛国56号(新潟消防)・愛国57号(新潟学生)の各機。
下は愛国51号(新潟県)。なお、( )内は献納者(団体)を表す。 (編集部)
す べ り ど め 〜大不況〜
高田中学校
急速な進展を遂げた大正期も末期には不況に突入し、昭和初期には経済恐慌となりました。景気が落ち込み、昭和4年巷に不景気風が荒れ狂い(米国ウォール街株価大暴落)、中等学校志望者も減少の傾向にありました。
毎年応募の最高を誇る高田中学も昭和5年には定員に満たず、上越地方で定員を超過したのは本校商業科だけという有様でした。
昭和7年度、この頃高田中学とのかけ持ち受験生が多く、両校ともに合格した者が相当数いましたが、殆んどは中学に行かず本校に入学してきました。
当時本校在学の皆さんは、後年の同窓会総会後の懇親会で当時を振り返り、「我々の頃は中学は滑り止めだったよね」と懐かしそうに語り合っていました。
写真は明治31年当時の高田中学校々舎。 (編集部)
のらくろ人気 〜少年倶楽部〜
のらくろ
のらくろ漫画(部分)
田河水泡(明治32〜平成元年)の漫画で、犬と軍隊をモチーフとした作品。主人公は犬の野良犬「黒吉」、通称のらくろ。講談社の雑誌「少年倶楽部」で、昭和6年1月号から
「のらくろ二等兵」として連載が始まりました。当初は実際の兵役同様に「志願兵で2年満期除隊」で終了の構想でしたが、非常に人気が出たので伍長(下士官)に昇進させて
作品が続くことになりました。また、雑誌だけでなく子供向けの商品にも次々とのらくろが登場しました。
連載は太平洋戦争直前の昭和16(1941)年10月まで続きましたが、内務省の指導で連載中止となりました。しかし戦後復活し、昭和55年まで連載されました。
出典:平田真義 上越市平和展 (編集部)
高田中学との野球騒動 〜昭八事件〜
当時の商工野球部
昭和8年当時高田商工野球部は全県的に有名な強豪校として知られていました。同年夏の大会で、ライバルである高田中学と早慶戦同然の激しい競合の末本校が優勝
しました。負けた腹いせに「南無八幡大菩薩」の赤い幟を持った多数の高田中学の応援団が、帰り際に裏門の土塁を壊し始めたので大喧嘩となり、興奮した商工の4・5年生は
銃器室の鍵を破壊して銃に着剣し、大勢の高田中学の集団めがけて突入しました。
先生は驚愕し、警察を呼びかろうじて収束。烏合の衆だけに、幸い責任者の検挙もなく終わることができました。
特に昭和4・5年入学の部員たちは皆優秀実力者で野球部の黄金時代を築き上げました。高田中学は商工との試合で常に連敗。「宿敵商工」に対するこの悔しさが
「昭八事件」を引き起こしたと言えます。 (編集部)
修学旅行10泊11日 〜旅費55円〜
修学旅行出発
修学旅行記念写真/皇居
昭和10年6月3日に商工5年生は10泊11日の修学旅行に出発しました。行先は関東・関西方面で、旅費は旅行積立金及び自費を含めて55円でした。
写真上は高田駅上野行き列車(蒸気機関車)。
主な行先は日光(東照宮・華厳の滝等)、東京周辺(都内・横浜・鎌倉等)、名古屋(名古屋城・伊勢神宮等)、奈良(東大寺・法隆寺等)、大阪(大阪城等)、神戸、
京都(2泊3日)、金沢というかなり欲張りな行程で、10泊11日の長き修学旅行は現代では考えられない学校行事です。
庶民の旅行が今日のように一般的でなかった当時、級友との名所旧跡を巡る旅は文字通り貴重な修学のための価値ある旅行となりました。(編集部)
クラブ活動の終焉 〜戦時体制へ〜
競技部
体操/グラウンド
昭和10年頃の学友会は、文芸部(弁論・会誌・研究の3部)、運動部(野球・庭球・武道・競技・スキー・水泳・角力・応援の8部)、総務部(会計部・研珠会)より成り、
熱心に活動、各方面に成果を上げました。写真上は競技部。
昭和16年には文部省の指令で、本校にも「高田商工学徒報国団」なる戦争協力組織が作られ、生徒の自治組織でもあった学友会はこれより雪崩の如く崩壊していきました。
この頃がクラブ活動全盛であり、2年後には戦争(日華事変)に突入し、以後日本国は太平洋戦争という泥沼にはまっていきました。
写真下は同年5月、春若葉の季節、太陽を浴びて裸体操で体を鍛えました。(編集部)
戦時体制へ 〜軍人教官〜
教職員写真
銃器保管室
昭和6(1931)年満州事変から、昭和12(1937)年の盧溝橋事件を経て、中国との本格的な戦争状態に陥りました。
また、昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃を契機に、米国との太平洋戦争に突入しました。
そんな戦時体制が教育現場にも否応なく組み込まれていきました。高田商工学校にも軍人教官(配属将校)が配属され授業の一環として生徒に軍事教練が課されました(写真上)。
そして、校舎内には生徒に対する訓練用の銃・剣等を保管するための銃器保管室(写真下)が設けられました。 (編集部)
戦前の教育制度 〜尋常小学校〜
戦前の教育制度
日本は明治以降外国との戦争を繰り返し、昭和に入ってからも満州事変や日中戦争、そして太平洋戦争と次々と戦争を始めて軍国主義の傾向を一層強めていきました。
学校では「戦争に勝つため」、「強い兵士になるため」の教育が行われてきました。
明治19(1886)年には義務教育が始まり、小学校は「尋常小学校」と呼ばれました。しかし戦争が長引き、昭和16(1941)年4月、国や天皇のために戦争に協力する
子供たちを育てるために「国民学校」に学校制度が変えられました。
子供たちは「少国民」と呼ばれ、小さな皇国民として、小さくても国民の一人として国に尽くすよう教育が行われました。
写真は、明治以降の学校制度の概要を図示したものです。 出典:上越市平和展 (編集部)
教育勅語 〜直立不動で奉読拝聴〜
教育勅語
教育勅語奉読
教育勅語は、明治23(1890)年に明治天皇が日本の教育の基本的な考え方を示したもので、各学校に下付され、教育勅語の精神を浸透させる教育が学校を通じて
行われました。
「家族や友達は仲良くし勉学に励みなさい」との文言と共に、「国家に重大なことがあれば国のために働き、天皇家を助けなさい」との記述もあります。
戦後天皇主権の考え方や神話的な国のあり方は間違っていると国会で否定され、教育勅語は回収・処分されました。
写真上は数少ない貴重な本物、下は御真影を前に勅語奉読を拝聴する小学生(「新選日本史」東京書籍)。 出典:平田真義 上越市平和展 (編集部)
教育勅語 〜その意味は〜
教育勅語/フリガナ
教育勅語通釈
戦前において、天皇制国家における国民のあり方を周知・徹底させるため、明治天皇の勅語(天皇が国民に発する言葉)という形で、明治23(1890)年10月30日に発布されました。
山形有朋首相が文部省にその原案を作成させました。
勅語において、天皇は国民の生き方として15項目の徳目を示し、最後の項目では「ひとたび国家に非常事態が起これば、忠義と勇気をもって国家に奉公し、天地と共に極まりのない
天皇・皇室の運命を助けるべし」と説いています。
勅語の謄本は、文部省から明治23年12月ころから各学校に下付され、元旦・建国記念日・天皇誕生日などの儀式において必ず校長が児童・生徒の面前で奉読しました。
戦後の政治・教育改革で昭和23(1948)年6月、国会で謄本の回収と排除の決議がなされ、回収処分されました。 出典:平田真義 上越市平和展 (編集部)
奉安殿 〜御真影・勅語保管〜
奉安殿
奉安殿/高田高等女学校
奉安殿とは、御真影(天皇肖像写真)や教育勅語の謄本(写し)などを保管している小さな建物で、だいたい校門の近くにありました。登校時には毎朝、奉安殿に向かって
最敬礼が義務づけられていました。
校舎が木造つくりでも、御真影や勅語謄本を災害から護るために奉安殿は鉄筋の学校が多く、御真影を護ることは校長の最重要責務でした。
もし火災になったら、奉安殿からそれらを運び出すのは校長の役割で、そのために命を落とした人、焼失してしまい切腹した校長もいたほど御真影は大切なものと
されていました。
奉安殿は終戦後、国家神道の廃止と共に取り壊されました。写真上は戦時下の子供たち「最敬礼する母と子」(太平洋戦争研究会編/ビジネス社)、
写真下は高田高等女学校(現北城高校)の奉安殿。 出典:上越市平和展 (編集部)
迫りくる戦争への備え 〜銃・剣の手入れ〜
兵器手入れ・整備
営内宿泊・大浴場
学校の銃器室には三八式歩兵騎兵各銃、三十三年式銃、村田銃が常備され、配属将校指導のもと各自の銃・剣の手入れが入念に行われました。中央に石田中尉配属将校の
顔が見えます(写真上)
昭和10年、5年生全員が軍事教練最後の仕上げで歩兵第三十連隊(兵舎:現南新町の城西中学校・県営アパート付近)に一泊入隊をしました。
写真下はその時の営内宿泊・大浴場での「芋の子洗い」状態での入浴。厳しい鍛錬から解放され、営舎食堂での楽しい夕食と共に、
級友との文字通り裸の連隊となる貴重なひと時となりました。 (編集部)
軍事教練と悲しき凱旋
軍事教練
悲しき凱旋
昭和12年、日華事変の勃発により強力な「国家総動員法」が展開されました。この頃から軍事教練が過激となり、実戦さながらの大演習や心身鍛錬のガンバリ行軍や
マラソンが実施されました。写真上は高田城跡での軍事教練の様子。左端2人が学校配属の軍事教練専属の将校、その右隣が伊藤校長。
昭和13年4月28日、日華事変の戦死者倉林部隊将士遺骨501柱が故郷に帰ってきました。この悲しみの行列に市内の全校生徒も参加。
右上に「いづも屋」の看板が見えます(写真下)。 (編集部)
戦時下の教育改革 〜国民学校〜
学校系統図
国民学校教科書
昭和12年に始まった日中戦争が泥沼化し、更に米・英などとの戦争(太平洋戦争)の可能性が高まる中、昭和16年3月に国民学校令が制定され、
明治19年に義務教育令が定められて以来親しんできた「小学校(尋常小学校)」の名称は、昭和16(1941)年4月1日から「国民学校」に変更されました。
今までの小学校の目的と大きく異なる点は、天皇に忠誠を誓う「皇国民の錬成」でした。国が遂行する戦争に協力的な少年少女を育てるために、世界に類のない
日本の天皇制が教育の中心となりました。アジアの地に天皇を頂点に戴く大東亜共栄圏を打ち立てることをねらった時代が到来しました。
写真上は学校系統図(昭和16年以降)、下は新しい教科書。 出典:平田真義 上越市平和展 (編集部)
青年学校
板倉青年学校
教練教科書(部分)
青年学校は昭和10(1935)年に今までの青年訓練所と実業補習学校が統合されて成立した勤労青年の教育機関でした。
以前に設立されていた青年訓練所は小学校を卒業した男子が徴兵年齢(20歳)に達するまでの訓練機関としてのものであり、軍事的予備教育を施して将来の優秀な兵士を育てるものでした。
その精神を受け継ぎながら、女子も含めて心身の鍛錬と職業技能教育もあわせて教育することを目的としました。戦後の昭和22(1947)には青年学校は廃止されました。
写真上は板倉青年学校(昭和17年7月開校)の教練査察の様子。写真下は青年学校の教練授業の一例(教練教科書より)。 出典:平田真義 上越市平和展 (編集部)
妙高登山・ガンバリ行軍 〜学校行事〜
妙高登山
戦雲急を告げ、満州事変から太平洋戦争へと正に暗黒の戦時下にあって、それでも学校行事として「登山」や「ガンバリ行軍」を行いました。
昭和14年では、登山は前日に赤倉温泉・燕温泉に分宿し翌朝全員で歌いながら山頂を目指しました。
ガンバリ行軍は、午前零時に校庭出発、信越線柏原駅前(現 しなの鉄道黒姫駅)まで約45キロの道のりを、全校350人の生徒が走りました。途中チェックポイントを経ながら、
明け方の5時頃には全生徒がゴールインし、汽車で高田に帰りました。但し、生徒は一睡もしていないので多くの生徒が高田駅を乗り過ごし、職員を慌てさせました。
このことから次回からは行程を変更して、登山・行軍とも毎年の恒例行事となりました。
写真は妙高登山の赤倉付近の様子。 (編集部)
戦時食料増産 〜終戦まで〜
食糧増産/グラウンド
昭和17年後半になると戦況も一進一退で楽観を許さぬようになり、翌18年1月に中学校改正令が発布され修業年限が4年に短縮されました。6月には「学徒戦時動員体制確立要綱」が
制定され、学徒の勤労動員という形で教育の現場に大きな影響が生じました。
戦時下の国全体で次第に物資が不足するようになり、食料の増産も叫ばれて学校現場でも「作業」という科目が設けられ、この時間は農作業に従事しました。グラウンド南、北城町神明宮
裏荒川堤一町歩を開墾して南瓜・ジャガイモ・さつまいもを主に、大豆・きゅうり・なす・トマト等を栽培しました。
春の田植え時、秋の稲刈り等農村部の繁忙期には出征等で労働力不足の農家に出勤し、農作業に従事しました。
写真はグラウンド南側の畑。 (編集部)
月月火水木金金 〜学徒勤労動員〜
木製ドラム缶
学徒勤労動員
昭和19(1944)年4月1日、戦時非常措置令により高田商工学校が高田工業学校に改編されました(商業科を機械科に転科)。また、同年8月に「学徒勤労動員令」が発令され、
学校が名古屋の新田合板()の下請けべニア工場となり、生徒を動員して木製ドラム缶を製造しました。(写真上)
その他、機械科の5年生は大島農機工場にて砲弾の旋盤作業、同4年生は日曹二本木工場、同2年生は本田鉄工所(東本町)と大山製作所(北本町)に通って飛行機部品、旋盤作業に従事等、
学校をあげて各方面に勤労動員されました。文字通り休日なしの動員作業。
写真下は工場内鉄道引込み線での作業風景。(編集部)
女学校生徒の勤労奉仕
勤労奉仕/軍服製造
勤労奉仕/防空壕作成
学徒勤労動員は上越地域も例外ではなく、昭和13(1938)年頃から中等学校以上の学生・生徒を勤労奉仕作業に当たらせました。昭和18年からは県外の工場への勤労動員も行われ、
一日の勤務時間が14時間におよぶこともありました。
高田高等女学校(現北城高校)でも、昭和20(1945)年5月から、講堂に巨大な裁断機が組み立てられ、ミシンが搬入され、陸軍被服工場の分工場として軍服製造を行い、
同校4年2組約100名が動員されました。このほか市内の工場にも動員されました。
写真上は講堂での軍服制作、下は防空壕作成の動員作業。 出典:北城高等学校 上越市平和展 (編集部)
少年兵として出征 〜学徒出陣〜
学生服&予科練制服
出征送別会
満州事変、日華事変を経て、昭和16(1941)年12月、日本はついにアメリカ、イギリス、オランダに宣戦布告。第二次世界大戦へと突入していきました。
戦争の拡大につれて劣勢になった日本は、「学徒勤労動員令」の公布により学生・生徒を戦争維持のために各方面の生産現場に駆り出しました。したがって授業はままならず、
繰り上げ卒業や各種戦時非常措置がとられました。
昭和20(1945)年3月、この年は4年生が一年繰り上げで卒業し、同年度に2回の卒業式が行われ、卒業生の多くは戦場に向かいました。
写真上左は、非常時の学生服(戦闘帽に詰襟服)、右は予科練制服。写真下は、少年兵(予科練生)として出征する友人を送る送別会。 (編集部)
直江津空襲 〜犠牲者3名〜
直江津空襲慰霊碑
慰霊碑碑文
太平洋戦争の終盤、日本本土への空襲は日増しに激しくなり、昭和20(1945)年5月5日 午前11時過ぎ、B29爆撃機が信越化学工業直江津工場を目標に1機飛来し、
50キロ爆弾を6個投下しました。当時直江津周辺の工場は、戦争のための資材を作る軍需工場であったことから攻撃の目標とされました。
しかし爆弾は工場に命中せず、近くの水田に落ちました。さらにもう1個投下された爆弾は黒井駅近くの倉庫に命中しました。この爆撃により、水田で耕作中の人、駅で作業中の人、
日本通運黒井営業所勤務の人、合わせて3名が亡くなり、5名が負傷しました。
被曝地には慰霊碑が建てられ、毎年5月5日には「直江津空襲と平和を考える会」を行い、慰霊を行っています。写真下は慰霊碑下部の碑文。 出典:上越市平和展 (編集部)
中田が原(現校舎)は元陸軍練兵場
学徒軍事教練/練兵場
軍用機の駐機
中田原の現高田商業高等学校の地は旧練兵場跡地で、広大な敷地は地主から多数分割売却は望まないということで、昭和43(1968)年に皆川製菓と共に買収しました。
数年に渡る建築作業を経て昭和49年の管理棟建設をもって主要な校舎建設が終了し、46年から毎年移転作業が行われました。
写真上は昭和初期の学徒軍事教練の様子、下の写真は妙高山を背景に数機の軍用機が駐機している様子が確認できます。
ここから前途有為な学徒が幾人戦地に送り出されていったのでしょうか。胸が熱くなります。 (編集部)
「支那蕎麦」 〜懐かしい呼称〜
志那そば店
いづも屋呉服店
今も昔も若者の胃袋を満たしてくれるラーメン。写真上の後ろの暖簾には「支那蕎麦」と記されています。懐かしい呼び方で学生たちの笑顔が素敵です。
下の写真は大正9(1920)年創業の「いづも屋呉服店」(当時)、後の昭和2(1927)年「いずもや百貨店」として、新潟県下で最初の百貨店として開業しました。駅前の好立地
を生かし地域を代表する店舗でしたが、後に長崎屋、大和デパートが出店し競争が激化、ジャスコと提携し富岡の地に移転しました。
移転後の跡地には、何社かの変遷を経て現在は「アートホテル」となっています。 (編集部)
戦 後 〜 (高度経済成長期) … click here / open-close …
<敬称略>
小学1年生の教科書 〜国語読本〜
サクラ読本
ヘイタイ ススメ
この教科書は、昭和6(1931)年の満州事変後の昭和8(1933)年から使用されていた教科書です。巻1の最初に「サイタ サイタ サクラガサイタ」とあることから、
通称「サクラ読本」と呼ばれています。
桜は「パッ」と咲き、散り際が潔いというイメージから、日本精神の特徴として選ばれ、さらに従来のような単語ではなく、文章になっていることからも、
日本精神の重視とという特徴が集約されています。
また、他のページには、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」など、戦争に関わる内容が書かれています。 出典:平田真義 上越市平和展 (編集部)
墨で塗られた教科書 〜戦争記述排除〜
ヨミカタ/小学2年
墨で塗りつぶし教科書
敗戦直後の昭和20(1945)年9月に文部省から、教科書の中の軍国主義的記述を削除するよう通達が出ましたが、すぐに教科書を取り換えることができなかったため、
戦争の記述のある教科書は、ぺーじを破ったり墨で黒く塗りつぶしたりして使用しました。
上の写真は小学2年生の「ヨミカタ」の教科書。下の写真はその教科書の右の58ページからの「十六 兵タイゴッコ」の話がページごと墨で黒く塗りつぶされています。
出典:平田真義 上越市平和展 (編集部)
戦後の学制改革 〜6・3・3・4制〜
高田市内の新制高等学校
移行措置一覧年表
昭和22(1947)年3月、教育基本法や学校教育法が制定され、6・3制義務教育が実施されました(国民学校初等科→6年制小学校・3年制の新制中学校)。
翌23年度に3年制の新制高等学校が発足し、翌24年度に4年制の新制大学が生まれ、小学校が6年、中学校が3年、高等学校が3年、大学が4年という、「6・3・3・4」制が誕生しました。
23年発足の高田市内の新制高等学校は、高田・高田女子(25年高田北城高校に改称)、高田農業・高田工業・高田商業の県立5校でした。
このほか高田家政(現上越高校)・高田女子実業(現関根学園高校)の私立2校があります。
出典:Wikipedia (編集部)
高田商高・工高 誕生 〜商工分離〜
測量&土塁からの土取り作業
グラウンド整地作業
昭和23(1948)年4月1日、学制改革で新潟県立「高田商業高等学校」「高田工業高等学校」が正式に誕生しました。
終戦直前に商業科が機械科に転科していましたが、戦後商業科復活の運動過程で商業高校として独立した方が認可され易いとのことで、分離の方針となりました。
工業科が実習との関係でより広い敷地を求めて新天地に移転することになりました。候補として旧陸軍兵器廠跡が挙がり、他の取得希望先が幾つかある中で、
当時来県していた米軍教育民政部長ライト中尉の理解を得て、工業高校用地として取得することになりました。
写真は兵器廠跡(現上越総合技術高校/本城町)にて学校建設作業に当る生徒達。 (編集部)
名立機雷爆発事件 〜犠牲者63名〜
海岸での合同火葬
石碑と地蔵尊(右)
昭和24(1949)年3月30日午後4時頃、名立小泊の海岸にドラム缶のような浮遊物を発見した住民が、機雷ではないかと駐在に通報しました。
駐在の巡査は元海軍の軍人で、機雷には詳しい人で聞きつけた多くの住民に避難するよう呼びかけましたが、5時23分波で大岩に接触した機雷は
大音響とともに爆発しました。その機雷は大きな軍艦をも破壊する威力をもっていたもので、近くの家100戸以上が損壊し、その破片で多くの見に
来ていた人たちにも多大な被害が及び、63人もの死者を出しました。
写真上は海岸での合同火葬、写真下は左が平和を守る碑と供養塔(奥左)、右は名立漁港に建つ地蔵尊と爆発の地を示す石碑 出典:上越市平和展 (編集部)
直江津捕虜収容所 〜平和記念公園〜
直江津捕虜収容所
クリスマス
昭和17(1942)年12月、直江津に捕虜収容所が開設され、同月10日シンガポールからオーストラリア軍将兵捕虜300人が到着しました。厳しい寒さと過酷な労働、
飢餓すれすれの食事、不衛生な環境等で開設から約2年間で60人の捕虜が亡くなりました。
戦後、横浜軍事法廷において捕虜を虐待、死亡者を出したとして収容所職員15人が有罪となり、そのうち8人が死刑判決を受け処刑されました。
裁判では食事のごぼう料理を「木の根を食べさした」など、文化の違いの誤解もありましたが聞き入れられませんでした。写真下はクリスマスの様子。
後年、川原町の収容所跡地には、市民有志発起による平和と友好を願う「平和記念公園」が造成されました。 出典:竹田清徳 上越市平和展 (編集部)
女子生徒入学 〜体育祭に女子種目〜
女子生徒入学
女子種目
戦後学制改革を経て、昭和23(1948)年に工業科が本城町の現上越総合技術高等学校の地に移転・独立しました。昭和25(1950)年4月に初めて7名の女子が入学し、
女子の商業教育が始まりました。
そして年々女子の入学者増加に伴い、体育祭の競技種目にも変化が現れ、女子種目が導入されました。
写真上は25年入学生の卒業時のアルバム写真。まだ本校女子の制服がなく、出身中学の制服のままの様子がうかがえます。写真下はは昭和32(1957)年の運動会、
女子徒競走(当時の呼称)で全員”ブルマ?”を着用しています。
(編集部)
祝 創立40周年 〜分離後初の式典〜
40周年記念空撮写真
40周年記念祝歌
昭和30(1955)年、創立40周年を迎え、商工分離後の商業高校単独の周年記念を盛大に祝いました。
記念事業として、校長住宅・運動場・会議室・家庭科室の各整備事業、及び式典・祝賀会・記念誌・展覧会等の式・祭事業を計画・実施しました。記念式典は10月29日(土)、
260名余の来賓を迎え厳粛なうちにも盛大に挙行されました。午後からは、祝賀会及び展示会・即売会が催されました。式典当日には、生徒全員に校章入り紅白2ヶ祝菓落雁等の
記念の品が配布されました。写真下は創立40周年記念のために作られた祝歌。 (編集部)
第二応援歌作成/40周年 〜生徒公募〜
第2応援歌々詞
昭和30(1955)年10月29日、創立40周年記念式典を挙行しました。40周年を迎えるにあたり、記念事業として大体ステージ緞帳1張・ピアノ1台の贈呈が実施されましたが、
さらに既存の応援歌のほかに第二応援歌を求める声が高まりました。
なるべく費用をかけずという方針のもと、作詞は在校生に公募という形で応援歌詞を募りました。短い募集期間ではありましたが、いくつかの応募があり、当時3年D組の涌井俊一さんの
作品が選ばれました。
また、曲については彼の担任の先生が、自身の友人である丸太昭三氏(作曲家・音楽理論家)に作曲を依頼し、格調高い詩にふさわしく、勇壮な曲調のうちにも歌いやすく流麗な旋律の曲が生まれました。
今日まで校歌・第一応援歌と共に、体育祭、対外試合等に歌い継がれています。 (編集部)
三船 浩デビュー 〜低音の魅力〜
レコードジャケット
昭和21(1946)年3月卒業の森田肖三さん(新井市(現妙高市)出身)が、同31(1956)年「三船浩」という芸名でキングレコードから「男のブルース」でデビューしました。
豊かな低音が持ち味で同曲が大ヒット、NHK「紅白歌合戦」にも3度出場しました。
平成7年に発表した「大地よ」が最後の作品となり、生涯に526曲をレコーディングしました。他の代表曲に「夜霧の滑走路」「サワーグラスの哀愁」「男の酒場」「黒帯の男」など
があります。平成元年日本歌手協会理事、3年常任理事を務め、同年〜7年理事長。
昭和61(1986)年10月16日、創立70周年記念講演会の講師として来校し、「プロのこころ」〜歌手生活30年をふりかえって」〜という演題で講演されました。
写真上はレコードジャケット。 (編集部)
「この下に高田あり」 〜豪雪〜
昭和2年豪雪
豪雪下の本町4丁目
高田の地は古より豪雪地域で、標題の言葉は江戸期(延宝9年)の、「大雪「この下に高田あり」の高札をたてる」という記述が最初の文献です。
写真上は昭和2年の豪雪に埋まった高田の町並み(高田測候所観測記録2番目の3.72m)。写真下は昭和30年代の本町4丁目付近の町並み。
降雪と屋根雪下ろしにより、家屋一階の屋根と道路の高さが同じ程度で、電線を跨ぎながら歩いた記憶があります。
消雪パイプや除雪重機のない時代、まさに雪との闘いの雪国の暮らしぶりでした。(因みに1番目は昭和20年の3.77m) (Y-san(s43))
※ 参照:新潟県 建設技術センターだより
屋根の雪下ろし
体育館小屋根雪下ろし
イメージ
冬の登下校は防寒具(アノラック)と長靴が定番で、雪道を時には滑って転びそうになりながらの悪戦苦闘の通学でした。降雪は屋根雪を膨らませ
家屋倒壊防止のための屋根除雪は専ら人力による作業でした(現在も同様)。
筆者は昭和40年代始めの在学でしたが、在学中に体育館東側の小屋根(写真上)の雪下ろしをした記憶があります。体育の授業の一環といえばそれまでですが…。
生徒が校舎の屋根の雪下ろし作業を行う、現代ではおよそ考えられないことではあります。おおらかな時代でした。 (写真下はイメージ) (Y-san(s43))
スキー授業は金谷山
スキー部員
スキー授業/金谷山
スキー授業/池の平
南城町3丁目校舎の時代の冬の体育授業は、金谷山でのスキー授業でした。1週間の体育授業を1日に集約し、午前3時間平常授業の後、昼食・移動
(2時間程だった?)を経て、金谷山ゲレンデ現地集合・解散のスキー授業でした。
学校から徒歩で金谷山まではかなりの距離、ましてスキーを担いで雪道を行くのは正に難行苦行でした。要領の良い人は学年が進むにつれ、金谷山近く
に住む学友の家にスキー用具一式を預けて、移動の負担を軽減させていました(かくいう私もそうでしたが・・・)。
昭和46年の冬は暖冬少雪のため 金谷山スキー場が使用できず、初めてスキー授業を池の平スキー場で実施しました。 (Y-san(s43)) (編集部)
体育祭は陸上競技場
体育祭白軍
体育祭紅軍
騎馬戦・棒倒し
昭和40年前後は生徒急増期で、校地・校舎は生徒で溢れかえっていましたが、南城校舎はグラウンドも比較的狭かったこともあり、年1回の体育祭は
お堀(南堀)を挟んだ向かいの城址公園内の陸上競技場を借り切っての開催となっていました。
競技場にはスタンド席があり、応援・観覧には誠に都合がよく、各応援席背後に設置された大きな絵が描かれた立て看板が映えて(写真のように)
活気ある体育祭が展開されました。
またこの頃は、全国的にどこの学校も男子の競技として騎馬戦・棒倒しがあり(騎馬戦は女子も)、迫力ある戦いが繰り広げられました。時には怪我人
も出て危険という事で、後にはどの学校も実施を見送るようになりました。 (Y-san(s43)) (編集部)
生徒急増 〜すし詰め教室〜
すし詰め教室
戦後一貫して高校入学者数は増勢をたどり、ベビーブーム世代(s22〜24年生)が高校入学する昭和30年代末〜40年始めに向けて、校地南側に
新入生用として木造2階建ての校舎(1・2階各3教室)が建てられました。
男女別クラス編成(1混合クラスあり)で、1クラス55名の生徒が教室にギッシリ、文字通りすし詰め状態の授業でした。ある意味幼少より
多勢の環境であったため特段の違和感は覚えませんでした。
入学時にはお堀に面した桜並木から教室内に桜の花びらが舞い込み、ほんのりとした安堵感を覚えました。 (Y-san(s43))
長髪・ヒッピー、GSブーム
長髪・GSブーム
戦後、民主思想と共に多くの欧米文化が入ってきました。音楽面では昭和30年代の米国音楽(ポップス、ロック、ジャズ、カントリーウエスタン等)
や30年代末の英国ビートルズの衝撃的なデビューと長髪スタイルでの世界規模での快進撃。日本に与えた刺激は非常に大きく、カルチャーショック
(長髪や都会のヒッピーブーム)も伴って当時の若者を中心に大きな影響を与えました。
40年代に入り、日本でも演歌を押しのけるように、和製ポップス、GS(グループサウンズ)、フォークソング等が同時並行的に音楽芸能界を賑わせ
ました。写真は文化祭での男子3人組のギターを持っての歌声披露。 (編集部)
戦慄!? 〜恐怖の応援練習〜
イメージ
応援練習
応援練習
入学早々新入生は校歌・応援歌の厳しい練習に直面します。昼休み又は放課後、上級生(主に3年生・応援団)が指導に当たります。
最初は新入生全員を対象に歌唱指導、更に必要に応じてクラス単位・グループ単位での指導がなされます。正に直立不動の姿勢で、喉を枯らしての歌の練習(訓練?)でした。
当時は学年の上下関係は絶対で、上級生の怒声に震え上がった人も少なくなかったと思います。ある意味理不尽とも思える歌唱指導でしたが、自身が上級生となって新入生に
早く覚えてほしいとの趣旨を少しは理解できました。
こわもて指導の功罪はさておき、校歌・応援歌とも思いのほか早く覚えることができました。後年、甲子園で本校々歌が歌われたシーンは、同窓生全員の胸を熱くしたことと
思います。 (Y-san(s43))
マイカー時代到来 〜新3種の神器〜
新3種の神器
自動車部
昭和30(1955)年頃から始まった高度経済成長期にあって、同40年11月から57カ月間続いた戦後最長の好景気=イザナギ景気中の象徴的なキーワードに
「新三種の神器(3C)」があります。
カラーテレビ、(マイ)カー、クーラーの購入が、庶民レベルで次々と実現していった良き時代でした。
特にカラーテレビは昭和39年の東京オリンピックを契機に、急激に普及していきました。
昭和41(1966)年、日本のモータリゼーションにとって大きな転換点となりました。それ以前には360ccの軽自動車が普及、クルマのある生活が身近になりつつありましたが、
同年4月にダットサン(現日産)サニー1000、11月にはトヨタカローラ1100が発売されて、まさに「マイカーブーム」が到来し、大衆車の販売競争が激化していきました。
本校には時代を先取りする形で、同30年代には自動車部がありました。写真下は同35年頃の自動車部で、初期のトラックから乗用車に変わっています。 (編集部)
青春のトキメキ 〜フォークダンス〜
フォークダンス
まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見みえしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思いけり……………… (「初恋」/島崎藤村)。
花ある君の手を握り、フォークダンスのリズムにあわせ、ぎこちなく踊る放課後の講堂でのフォークダンスの集い。(主催は生徒会?)
マイム・オクラホマミクサー・ コロブチカと、しばし時を忘れての正に「青春のときめき」。無我夢中でついていくのが精一杯のほろ苦い青春の思い出でした。
写真はオクラホマミクサーでしょうか……。 (編集部)
六華商事・銀行 〜出資金500円〜
売店/s20年代後半〜
売店/s30年代中頃〜
商業教育の実践体験として昭和26(1951)年に「六華商事株式会社(商事及び銀行業務)」が設立されました。生徒自らが会社経営を通じて生きた経済活動の仕組みを学ぶ機会となり、
全国的にも注目されました。入学時に一人当たり500円を出資金として納入し、第1期の株式配当金は一人30円(持株3)となりました。(写真は商事部門)
昭和29(1954)年には金融業務を分離・独立させ「六華銀行」を設立しました。 (編集部)
堂々・青春の主張 〜校内弁論大会〜
校内弁論大会
年に一度、校内弁論大会がありました。各学年、クラス代表がテーマ自由の演題を掲げ、全校生徒を前に堂々と弁舌を披露しました。
写真は昭和42年の開催で各学年6クラス、全体18名のクラス代表の演説会。最初に弁論部代表が模範弁論を披露し、以下各クラス代表が事前の抽選順に登壇します。因みに1〜6番目の演題は以下の通りです。
基準弁論………………弁論部
1.チームワーク…………2B代表 4.長髪………………1B代表
2.レッテルと社会性……2C代表 5.二つの顔…………2F代表
3.わが青春に悔いなし…3E代表 6.マスコミと私達…1E代表
(Y-san(s43))
髭の先生は3年生 〜簿記部〜
先生は3年生/簿記部
入学時、部活全入制度のもと簿記部に入部しました。毎日放課後、部室(簿記室?)で問題集(日商検定?)を使って、立派な濃い髭をはやした短髪(坊主頭)の
先生が授業の先取り進度で熱心に且つ時には厳しく教えてくれました。
ある日、講義の後の各自自習の時間に問題集の疑問点を近くの若い先生に伺うと、教壇上の先生を指差しながら「そこは○○君に聞いてください」とのこと、
よく見ると壇上の髭先生が学生服を着ているのに気が付いて(それまで講義中は白ワイシャツ)、3年生の先輩が1年生を指導してくれていたことに気が付きました。
さすが高校の部活は重厚で、1年生と3年生では色んな意味で年齢以上の差があることを知ることとなりました。 (写真はイメージ) (Y-san(s43))
郷土の英雄 謙信参上 〜天と地と〜
タイトル
ロケ風景
謙信&銅像
昭和44(1969)年1月より、上杉謙信の半生を描いたNHK大河ドラマ「天と地と」(原作:海音寺潮五郎)が、史上初のカラー放送で始まりました。
春の雪消えと共に謙信公の居城春日山や林泉寺を訪れる観光客が急激に増加し、全国各地から連日バスやマイカーが押し寄せて、テレビ放送効果の大きいことが示されました。
7月12日には現地ロケが行われ、景虎(謙信)が武士に嫌気がさし、ひそかに高野山に向かおうとして家臣たちに引き留められるシーンなどが撮影されました。
(主演(謙信):石坂浩二/写真中)
平均視聴率25.0%、最高視聴率32.4%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)で、7作目にして久々の大河ドラマヒット作となりました。
このドラマの放映期間中に、甲府駅前に武田信玄、春日山城跡に上杉謙信の銅像がそれぞれ建立されています。 (編集部)
未来の夢を先取り 〜大阪万博〜
太陽の塔
開会式
テーマ曲/三波春夫
昭和45(1970)3月15日から大阪府吹田市の千里丘陵で、アジア初かつ日本で最初の国際博覧会が開かれました。「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、77か国が参加し、
終戦25周年記念として、世界第2位の経済大国となった日本の象徴的な意義を持つイベントでした。
世界各国の新技術や文化を結集し、一時の未来世界を作り上げたことで6422万人が来場し、大成功を収めました。
本博覧会では、動く歩道、モノレール、リニアモーターカー、電気自動車、携帯電話、ファミリーレストランなど、21世紀の現代社会で普及している製品やサービスが初めて登場しました。
岡本太郎が制作した「太陽の塔」は大阪万博のシンボルとなり、またテーマ曲の「世界の国からこんにちは」は多くの歌手の共作となりましたが、
越後が生んだ国民的歌手(新潟県越路町/現長岡市)の三波春夫の明るい歌声が代表曲となりました。 (編集部)
ラーメン一杯50円 〜校内食堂〜
ラーメン50円
夜間定時制課程に学ぶ生徒用に校内に夜間給食の設備(食堂:家庭科教室)が設けられていました。この設備を利用して昭和35年から昼食用として「中華そば」の
販売を始めました。専任の”おばちゃん”が切り盛りして全日制の生徒も利用することができました。
ラーメン一杯が50円(?)だったと記憶しています。大変な盛況で昼食時は六華商事の生徒も当番制で手伝っていましたが、こわもての上級生が来て、「チャーシュ
ーもう一枚入れれや!」と言われ、余計にもう一枚入れたとか入れなかったとか・・・!?。 (Y-san(s43))
頭髪自由化
男子は全員坊主頭
昭和40年代半ばまでは校則に「男子の頭髪は短髪とする」という条項がありました。世間では校則見直しの機運が高まり、頭髪を自由化する学校が増えてきました。
筆者の在学中に生徒会役員数名が自由化を求めて直接校長室に直談判に臨みました。当時の松縄校長先生はしっかりと話を聞いてくださり、代表が話し終わると
微笑みながら優しく諭すように「物事には順序があります。先ず係の先生に相談してみて下さい」とのお言葉、結局その年は残念ながら自由化は実現しませんでした。
要望は後輩に引き継がれ数年後の昭和45年に実現しました。 (Y-san(s43))
新校舎(中田原)〜 … click here / open-close …
<敬称略>
校地は旧陸軍練兵場跡 〜中田原新校舎〜
校地/中田原新校舎
体育クラブ管理棟
新校舎予想模型
昭和43年3月、南城町3の校舎が手狭となり移転地として中田原の旧陸軍練兵場跡地を買収しました。敷地43,132u(約1万3千坪)で南城町3の校地5千坪から約2.6倍の
県下でも有数の広さの校地面積となりました。上の写真からは赤線内の校地、昭和40年開校の城西中学校校舎、遠くにNHKの電波塔が望めます。
また、同年10月に校舎建築に先立って校地南端に体育クラブ管理棟(通称:合宿所)が建設されました。昭和46年3月に商業科特別教室棟が完成するまでの3年間は、広い
校地に合宿所のみがあるという状態が続きました(グラウンド使用可)。写真下は移転構想時の新校舎完成模型。 (編集部)
オイルショック直撃 〜校舎建築〜
管理棟建築
中田原校舎全景
昭和46年3月商業科特別教室棟竣工、翌47年普通教室棟(&図書館・体育館・第1期グラウンド造成)、48年普通科特別教室棟(&第2期グラウンド造成)、
49年に管理棟が各々竣工しました。
4年にわたる教室棟・管理棟の工事期間ですが、46年のドルショック、48年のオイルショック(第1次)による経済混乱により管理棟建設に大きな影響が生じました。
本来管理棟には教務室も含む計画でしたが設計変更され、普通教室棟2階の教務室を管理棟に移転する予定が頓挫してしまいました。
当時の教務室は廊下部分も含んでいましたので、2年生は体育館への移動時は1階に降りて1年生の教室前廊下を通る必要がありました。(現在は廊下確保して通行可)
(編集部)
幻の六華デパート 〜六華商事購買部〜
幻の六華施設
幻の六華施設
南城3丁目校舎時代に生徒の商業実践活動として、六華商事・六華銀行が設置運営され株式会社としての活動が全国的にも先進的な試みとして注目されました。
新校舎建築に伴い、管理棟・普通教室棟の間、体育館寄りに二階建ての専用の建物(1階食堂、2階販売・銀行)を建築する計画でしたが、私費負担軽減、実習とはいえ
商行為に行き過ぎがある、県有財産内での営利行為は不可等の理由により計画を断念せざるを得ませんでした。
昭和30年6月に長野商業高校の先生と生徒が、六華商事鰍フ組織を見習うため来校。同校は「長商デパート」という名前の株式会社組織を現在に至るも運営しています。(編集部)
高田・直江津合併 〜上越市誕生〜
合併促進パレード
合併後初の市議会
昭和46年4月29日、高田・直江津両市が合併し上越市誕生。合併時に港や鉄道での交通の要衝だった「直江津」と県の出先機関や高等教育機関などの地域の中心地だった
「高田」の合併だったために、市名決定に於いては何れも譲れないものがあり、折衷案として「上越地方の中心地」と言う意味で上越市となりました。
その後も市名に関しては様々な動きがあり、両市名復活(例 直江津高田市))や頸城野市など再考を促す声がありました。因みに高田は元祖的な地名で、全国には陸前高田・
大和高田・安芸高田・豊後高田の各市がありますが、何れ頭に旧国名の冠が付いています。写真下は初の上越市議会(編集部)
惜しまれて廃線 〜頸城(軽便)鉄道〜
サヨナラ列車
新旧交代
昭和46年7月、黒井〜浦川原間の頸城(軽便)鉄道が営業を終了しました。大正3年に新黒井〜下保倉間(13.8km)が開業し、大正5年には浦川原まで延伸。
頸城鉄道の開通は東頸城郡下の交通を一変させ、地域の経済・文化の発展に大きく貢献しました。
しかしながら自動車へのシフトという時代の変化により昭和21年以降赤字を繰り返し、体質改善の努力も及ばず43年に一部区間が廃止、46年には全線廃線となり開業以来57年間の
歴史を閉じました。
頸城・浦川原方面から本校への通学生にとっても貴重な交通手段でした。
写真上は黒井駅最終(サヨナラ)列車。下の写真は昭和40年代、廃止の迫った頸城鉄道と新型の路線バスが並走し、庶民の足の新旧交代を象徴するかのようです。(編集部)
引っ越し大作戦 〜中田原新校舎へ〜
引っ越し/搬出
引っ越し/搬入
昭和47年7月、中田原の新校舎建築において普通教室棟第二期工事が完了しました。
同年9月1日の引越し作業確認のための職員会議を経て、翌2日から4日間かけて新校舎への全面移転作業を行いました。高商魂が一つになって事故のないスムーズな作業が行われました。
引越最終日の6日は全校集会を開き、事務長から清掃についての説明を受けて2・3年生は新校舎、1年生は旧校舎の分担の下、教職員・生徒全員で新旧校舎の大清掃が行われました。
写真はトラック提供の引越業者(日本通運)のほかに職員・生徒が協力しての作業の様子。写真上が南城校舎からの搬出、下が新校舎への搬入作業。まさに人海戦術でした。 (編集部)
中田ヶ原合宿 〜体育クラブ管理棟〜
合宿所
合宿所見取り図
昭和43年10月に完成した合宿所(体育クラブ管理棟)は、一般生徒には無縁になりそうなので、友人間、子弟間、同僚間の交流を目的として、3年生全員が宿泊合宿を体験することになりました。
翌年8月24日(日)から30日(土)まで、A組から順に実施。各自毛布を持って午後1時に集合、翌日昼頃に解散という日程で、日中ソフトボール・野球等に打ち興じ、
夜の友との語らい・夕食後のミーティングに充実感を得た位で、翌朝ラジオ体操の予定があってもしない組もあり、だらだらと時を過ごしたという感じで評判が悪く、この年だけでやめてしまいました。
食料の米(5合)・味噌・野菜は各自持ちで200円を徴収しました。
写真上は合宿所(北城高校図書館を移築)、下は合宿所内の間取り図。 (編集部)
お世話になりました 〜関商店〜
関商店前通り
メッセージ
昭和47年9月、新校舎への全面移転が行われ南城校舎に別れを告げました。
戦後の南城校舎時代お世話になった思い出として、学校出てすぐの関商店での腹ごしらえと店の「おばちゃん」との交流があります。
部活帰りにちょっと寄って、パンや牛乳を掻き込みました。中には毎日寄るのがルーティンになっている人もいました。現金を持ち合わせていないときは、
ツケにしてくれましたね。おばちゃんも育ち盛りの若者を笑顔で温かく接してくれました。累計どのくらいの高商生がお世話になったことか。中にはツケを払わずに
卒業していった剛の者もいたとか・・・。改めて感謝々々です。
写真上は関商店のあった通り、下は学校に寄せられたおばちゃんからのメッセージ。 (編集部)
ホーム延伸工事竣工 〜南高田駅〜
南高田駅ホーム
駅駐輪スペース
中田原練兵場踏切
昭和47年9月6日、南高田駅のプラットホームの延伸工事が完了しました。同駅は昭和36年開業の無人駅でしたが停車する列車本数が少なく、また駅プラットホームが短い(50m)ため
南高田駅で降車する乗客は列車が南高田駅に近づくとホームにかかる車両に移動する必要がありました。
前年に駅西側中田原地区(旧陸軍練兵場/終戦後開拓団農地)に高田商業高校が南城町3から移転して、これまでの一般客や高田農業高校生の他に高商生も利用することにより、
乗客数が増加し特に朝夕の登下校時の混雑が予想され、かねてからの地元住民の改善要望と相まって、停車本数増と駅ホームの延伸(100m)が実現しました。
また、自転車利用者増大により駐輪スペース及び待合室も拡充されました。写真下は「練兵場」の名残を示す踏切名 (編集部)
部員17名/野球部 〜甲子園出場〜
甲子園入場行進
甲子園応援席
昭和51(1976)年、春選抜の糸魚川商工高校に続き、部員17名の高商野球部が夏の県大会を制し甲子園初出場を果たしました。夢の舞台は8月12日第二試合、宮崎県立福島高校戦で見事
10ー7で乱打戦を勝ち抜きました。
6回表の攻撃、3塁に走者を置いて左の4番打者松井千秋君が「内角高め」の初球を思い切りスイング、白球はライナーとなってライトラッキーゾーンに。県勢第一号のホームランで、新潟県勢
としては13年ぶりの甲子園勝利、ベスト8入りを果たしました。
上越勢としては糸魚川商工高校(現糸魚川白麗高校/s47・48年夏、s51年春出場)以来2校目の出場でした。ちなみに3校目は平成2(1990)年夏に出場した高田工業高校(現上越総合技術高校)です。(編集部)
甲子園出場 余話 〜融和に貢献〜
高田駅頭報告会
甲子園出場後援会
昭和46年合併により上越市が誕生しましたが、商都高田と工業都市直江津のそれまでの住民の歴史的なライバル視から、一部合併に強く反対する声もありました。
合併に当たり両市の融和を図るべく、新市役所庁舎を両市の中間の春日山地区に建設する等様々な配慮が施されました。
そんななか合併間もない昭和51年夏の大会に高商野球部が甲子園に出場し、上越市民一丸の応援となって高田・直江津間の融和を促進する大きな力となりました。
また甲子園出場にあたり資金面でのバックアップのため、PTA・同窓会はもとより中核的独立組織として後援会組織(写真下)を立ち上げ、広く上越市民に募金を募り多くの市民・団体から貴重な
浄財が集まりました。後に試合後の残金の中から、市のスポーツ振興のために1,500万円ほど上越市に提供しました。 (編集部)
情報処理科設置 〜COBOL言語〜
FACOM mate U/ミニコン
ACOS 430/70/汎用機
COBOLプログラミング授業
昭和51年1月、超小型電算機(FACOM mateU/ミニコンピュータ)が設置され情報処理教育の幕が開け、翌年には科目「電子計算機一般」に関する研究成果を発表し、県下における電算機教育の
先駆けとなりました。その後、商業科設置校にもオフコン(オフィスコンピュータ)が配置されました。
情報処理教育のニーズの高まりと共に昭和63年本校商業科1学級が「情報処理科」に転科され、より高度な情報処理(IT)人材を育成する体制が整えられました。
同年11月にはNECの汎用電算機(ACOS 430/70)を中核として、パソコン PC9801(一人1台)・プリンタ(2人に1台)等のオンライン電算システムが整えられ、プログラムCOBOL言語等を学習
しました。全商情処検定1級、通産省情報処理技術者試験第二種の合格者を輩出し、学校の活性化に貢献しました。 (編集部)
上越文化会館オープン 〜芸術鑑賞会〜
上越文化会館
ステージ緞帳:雪国
1Fロビー
昭和53(1978)年5月、上越市役所とオールシーズンプールの間に建設された上越文化会館が天使の歌声と共にオープンしました。今まで市内に十分な音響効果の整った施設がないとの
多くの市民の要望から建てられました。
大ホールは1,500余席あり、ステージには本校卒業生の富岡惣一朗(s14年卒)画伯創作、画題「雪国」の緞帳が設置されました。また、期待通りの優れた音響効果が実現されていて高評価されています。
これまで校内で催された芸術鑑賞会は、新設なった文化会館で実施されることとなり、午前に特別授業を組み、昼食・移動時間を挟んで概ね午後1時過ぎからの鑑賞となりました。
現地集合・現地解散で本格的な施設での鑑賞会は、本物の芸術に触れる良い機会となっています。 (編集部)
上越教育大学開校 〜悲願の4年制大学〜
上越教育大学
開学式典
山屋敷キャンパス
昭和56(1981)年4月16日、208名の学部第1回生の入学式が挙行され、わが国最初の教員養成のための新構想大学が開校しました。
4年制大学設置という上越市民20有余年の宿願がかない、上教大が教育都市上越の中核としての歩みを始めました。
この大学は大学院(2年制、現職教員も受入れ)と4年制の学校教育学部からなっています。
大学用地は市のほぼ中央に位置する山屋敷地内の35.3fで、市営球場が16個も入る広さです。
昭和24年に、新潟大学高田分校(26年に教育学部高田分校)が設置されていましたが、 同57年に本校に統合という形で分校32年の幕を閉じました。分校廃止には猛烈な
反対運動が展開されましたが、その意味からも上教大の開学は市民挙げての歓迎するところとなりました。写真中は開学式セレモニーで右端が辰野千壽初代学長。 (編集部)
キラッと輝る演劇部 〜貴重な受賞歴〜
演劇部の活躍
演劇部の受賞
1980年代に演劇部の活躍がありました。昭和56(1981)年に新潟県芸術祭にて芸術祭賞受賞、昭和59(1984)年には関東高等学校演劇コンクールにて演劇協議会会長賞・東京都知事賞受賞、
同年8月の第8回全国高等学校演劇発表会において「人魚のお話」で最優秀賞受賞。
昭和61(1986)年に関東高等学校演劇研究大会コンクールにおいて「瞽女唱がきこえる」で優秀賞・創作脚本賞受賞、同年8月の第32回全国高等学校演劇コンクールにおいて優秀賞・文化庁賞・
創作脚本賞の各賞を受賞しました。(編集部)
女子ソフトテニス部黄金期 〜県下無敵〜
テニス部入場行進
テニス部優勝
平成元(1989)年インターハイに出場して以後、翌年から平成7(1995)年までインターハイ・国体・選抜大会等の全国大会に出場しました(平成4年を除く)。顧問の先生は高商着任以前にも県下の
幾多の高校で強豪ソフトテニス部を育成されてきましたが、本校着任して数年で県下の頂点を極め、およそ7年にわたり県下に高商女子ソフトテニス部の確固たる地位を確率・維持されました。
放課後のテニスコートでの練習と共に、大会前や冬期間には体育館での夜間練習も実施し、強豪校に必須の練習量と質を確保・実践しました。 (編集部)
佐藤記念六華会館完成
六華会館完成
テープカット
昭和64(平成元/1989)年4月26日、佐藤記念六華会館落成式が挙行されました。大正6年卒業の佐藤富一郎氏が母校に寄贈した浄財をもとに、後輩たちの部活動等の合宿のための施設が建設されました。
それまで校内合宿では、教室等を寝所、調理・飲食は調理実習室、入浴は体育館のシャワー室で済ませる等、生徒たちにとっては決して恵まれた環境ではありませんでした。しかしながらどこの学校もほぼ
同じ環境でそれが普通と思っていたところ、冷暖房完備、1階に調理兼食堂、男女別の浴室・トイレ、2階には大小5室の和室が設けられ、申し分のない合宿環境を得て生徒・職員とも感謝の念を抱くとともに
先輩の意志を強く受け止めより一層精進に努める覚悟を新たにしました。
写真の落成式テープカットには故佐藤富一郎氏の奥様はじめ、同窓会長、学校長、生徒会長等関係者代表がテープにハサミを入れました。(編集部)
初の勉強合宿 〜佐藤記念六華会館〜
六華会館2階見取り図
2階和室(大)
第二種情処試験合格証書
昭和63年に情報処理科(以下 処理科)が1学級誕生しました。商業科目の履修総単位数から、1年次・2年次は各4単位、3年次は6単位を情報科目に割り当て、1年次からCOBOLプログラミングを学習しました。
全商主催の情報処理検定上位級及び希望者には更に高度な通産省主催の情報処理技術者試験受験を目指しました。
処理科2期生が2年生の時に、上記技術者試験第二種受験を目指して希望者数名(女子)が合宿所(六華会館)で合宿をしました。秋季10月の受験を目指し9月の連休を利用しての文字通り勉強のための合宿でした。
通常は部活合宿(殆ど運動クラブ)が常ですが、会館創設以来初の勉強のための合宿となりました。
高校生での合格は非常に難易度が高いのですが、幸い1名が合格し次年度(3年次)春の試験でもう1名合格しました。後者のI(旧姓)さんは卒業後有名電気会社のT社に入社し、2児の母である現在も主に原発関係のSE
(システムエンジニア)として活躍しています。(編集部)
いきいきスクールプロジェクト 〜緑 化〜
緑化活動/中庭
緑化活動/中庭
平成6(1994)年、いきいきスクールプロジェクトがスタートしました。学校自らが創意工夫をして生徒が主体的に参加できる活性化のための活動を検討しました。昭和46年に中田原の新校舎に移転して、県下有数の
敷地面積と広くゆったりとした校舎群、広大なグランド・テニスコート・プール等の屋外運動施設等と恵まれた教育環境に身を置くことができました。そんななかにあって比較的殺風景な中庭を中心として、校内の
緑化に取り組むこととなりました。
平成7年までの2年間をかけて学年・クラスごとに役割を分担し、それまでは大根畑であったこともある中庭に花壇が造成されました。その原型は現在の六華花壇として引き継がれています。またその後のいきいき
スクールステップアップ事業にかけて中庭中央の藤棚も整備されました。その他クラス単位で鉢やプランターによる草花の植栽事業も行われました。校地周囲の桜並木と相まって緑豊かな学び舎となりました。(編集部)
80周年記念事業 〜吹奏楽部復活〜
吹奏楽部
トレーニング機器
中庭造成
平成8(1996)年10月5日に80周年記念式典が挙行されました。記念品として、新校旗、紅白幕、折畳み椅子、集合用テントと共に、かねてより生徒からの要望があった
トレーニング機器・吹奏楽器一式が贈呈されました。
吹奏楽部の楽器については、それまでの保有楽器は破損や老朽化で殆ど使用に耐えるものが無く、部活動としては休部の態を余儀なくされる状態でした。数は十分ではないですが
小編成分の新品の楽器を手にし、再び伝統ある高商吹奏楽部が復活しました。
また、主に運動部員用に本格的なトレーニング機器一式が設置され、基礎体力の増進に寄与することが期待されます。
また併せて記念事業として、校庭緑化の桜植樹と中庭造成が施工されました。校門左右の桜並木(各15本程度)以外の校庭外周の桜はこの事業の並木です。
中庭には記念碑も設置されました。 (編集部)
新線開通/現北越急行 〜ほくほく線〜
米山を背景に走る
ほくほく線路線図
南線・北線の争い
平成9(1997)3月22日、ほくほく線が開通しました。ほくほく線は、新潟県南魚沼市の六日町駅から同県上越市の犀潟駅までを結ぶ北越急行の鉄道路線で、
北陸方面への短絡線の役割を有する日本国有鉄道(国鉄)の予定線「北越北線(ほくえつほくせん)」として、昭和43(1968)年に着工され、紆余曲折の末、
北越急行によって営業を開始しました
路線ルートをめぐっては、「北越北線」案と「北越南線」案の間で14年に渡る熾烈な鉄道誘致合戦(「南北戦争」)がありました。
昭和46年に頸城鉄道が廃線となっていましたが、同線の開通により浦川原方面からの通学の便が良くなりました。(編集部)
ソフトボール部復活 〜全国大会出場〜
ソフト部総体出場
ソフト部総体出場
平成21(2009)年、北信越大会・インターハイに出場、同年開催のトキめき新潟国体選抜メンバーに岩下・藤本両選手が選出・出場しました。
更に3年後、平成24(2012)年に北信越大会・インターハイに出場。
昭和53(1978)年の北信越大会・インターハイ、翌54(1979)年インターハイ出場以来の大きな大会への出場となり、永遠のライバル高田北城高校を
退け30年振りに伝統の高商女子ソフトボール部復活となりました。※ 写真上:h21、下:h24 (編集部)
平成の広域市町村合併 〜新上越市誕生〜
新上越市
平成17(2005)年1月1日付で上越市は周辺13町村を編入合併し、市域面積が約4倍(972.62ku)に増大。佐渡市(佐渡島の全域)をも超えて県内では村上市に次ぐ第2位の
広さとなりました。
新しい上越市の人口は 208,082人(平成17年国勢調査値)で、新潟県全体の約8.6%を占めますが、昭和60年の 216,348人をピークに減少傾向が続いています。また、
年齢区分別人口は、年少(0〜14歳)が14.4%、生産年齢(15〜64 歳)が60.8%、老年(65歳以上)が24.2%となっており、その推移を見ると年少人口は減少し、老年人口は
増加するなど少子高齢化の傾向が顕著に現れています。
合併にあたり新しく計28の地域自治区が設けられました。これは、市町村の合併の特例等に関する法律(合併特例法)に定められた地域自治区制度を導入したもので、
全国初の導入例となりました。(編集部)
商業クラブの活躍 〜全国発表〜
商業クラブ全国発表
平成6年5月に新潟県商業クラブが発足し本校も参加を決定。生徒会主体にテーマ設定方針(全校生徒で取組める)と基本方針(将来的に別組織)の確立を図りました。
(同年末に「商業クラブ」発足))
研究テーマは当時全国的にも例を見ない大型店「ウイングマーケット」構想を知り、高商生としての問題意識から「大型店舗進出の影響」に決定しました。
1学期中にアンケートを作成し、全校生徒・職員・保護者から回答を得、夏休みに集中的に集計・分析・報告書作成等の作業を行いました。
初めての試みで不安の中、10月7日の第1回県大会兼全国大会(前橋)予選会に臨み、見事最優秀校に選出され県代表となりました。写真は次年度の連続全国大会(函館)出場。(編集部)
初の海外修学旅行
韓国修学旅行
韓国修学旅行
昭和年代までの修学旅行の行先は日程上概ね本州に限られ、主として京都・奈良を中心とした関西方面への旅行か、少し足を延ばして
広島を中心とした四国、あるいは倉敷、岡山、神戸等の中国・四国方面の旅行が一般的でした。その後交通機関の発達もあり平成に入って
九州方面、更には飛行機を利用した沖縄、北海道方面の旅行も可能となりました。
平成23(2011)年10月6日、初めての海外修学旅行(3泊4日)が実現しました。
隣国韓国への修学旅行。渡航手続き(パスポート取得等)・事前指導等これまでになく準備が必要でしたが、
全員事故もなく無事帰国しました。普段ヤンチャな生徒も、この時ばかりは初めての体験・緊張の連続で品行方正でしたとさ・・・。 (編集部)
Challenge Shop Rikka 〜地域活性化〜
チャレンジショップ六華
チャレンジショップ六華
高商商業クラブでは平成6年から「地域経済」をキーワードとして、大型店舗進出の影響や高田本町商店街を中心に上越地域経済への影響・変化、並びに活性化について
調査・研究を行ってきました。
また、平成17年からは特に高田本町商店街の活性化を目標とし、「チャレンジショップRikka」に取組んできました。全校生徒から500円の出資を受け、模擬株式会社
として活動しています。
南城町3の旧校舎(現南城高校)時代の六華商事・銀行の生徒による実践活動を彷彿させる活動で、校外に活躍の場を移して高校生ならではの提案・活動をし、地元商店街の活性化・
消費者意識の啓蒙に貢献しています。頑張れ鮫城健児! (編集部)
新幹線開通 〜北陸新幹線〜
北陸新幹線
北陸新幹線と校舎
平成27(2015)年3月14日、整備新幹線5路線の一つである北陸新幹線「長野・金沢」の延伸区間が開通しました。「かがやき」「はくたか」「あさま」「つるぎ」の4車種が
運行され、県内駅(上越妙高・糸魚川)は「はくたか」のみが停車し、東京・金沢間最速の「かがやき」は全て通過という運行編成となりました。因みに「あさま」は東京・長野間、
「つるぎ」は富山・金沢間の運行です。
校舎からは妙高山の山並みが美しく見えていましたが、開業後は校地南西をかすめるようにコンクリートの高架橋が視界に入り、何とも無粋に感ずるのは筆者だけでしょうか・・・。(編集部)
創立100周年 〜周年記念事業〜
100周年記念式典
記念品の贈呈
平成28(2016)年10月22日、穏やかな秋晴れのもと創立百周年を迎え記念式典が大体育館にて挙行されました。来賓・旧職員・保護者・同窓生約140名の方々を迎え、
全校生徒が参加して午後1時45分から約1時間、厳粛な雰囲気のなか学校長式辞・実行委員長挨拶をはじめ来賓の方々からの祝辞を頂き、生徒を代表して生徒会長が喜びの
言葉を述べました。
また、同窓会長より記念品として「体育館演題一式」「行事用パイプ椅子300脚」が贈呈されました。
また、記念事業として午後3時より講師に青山繁晴氏を迎え「君たちの出番、祖国は甦る」の演題で講演会が催されました。(編集部)